 |
☆どんなひと?
1608(慶長13)-1648(慶安元)。江戸時代初期の儒学者。わが国における陽明学の開祖。数多くの徳行、感化によって、没後に《近江聖人》とたたえられる。近江国高島郡小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町上小川)に、中江吉次の長男として生まれる。 名は原(げん)、字は惟命(これなが)、号は嘸軒または顧軒、通称は与右衞門(よえもん)、幼名は原蔵(げんぞう)という。普通おこなわれている藤樹とは号でなく、屋敷に生えていたフジの老樹から、門人たちが《藤樹先生》と呼んだ尊称に由来する。 9歳、米子藩主加藤貞泰の家臣であった祖父・中江吉長の養子となり、米子に行く。10歳、藩主の国替えにともない、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)に移り住む。15歳、祖父の死去により、100石取りの武士となる。17歳、独学で『四書大全』を読み、朱子学に傾倒する。しかし、33歳のとき、『王龍渓語録』を、37歳のときには『王陽明全書』を入手するや、熟読玩味して、おおいに触発感得をうける。それまでの学問上の疑念が解け、格法主義的な生活の非なることを知り、しだいに王陽明の「致良知説」へと信奉していった。これより以前の27歳のとき、母への孝養と自身の健康を理由に大洲藩士の辞職を佃家老に願いでるが、ついに許可を待たずに脱藩して、ふるさとの小川村へ帰る。浪人(牢人とも書く)となった藤樹は、居宅を私塾として開き、41歳で亡くなるまでのおよそ14年間、大洲からやってきた藩士や近郷の人々に《孔孟の学》や《陰隲》を教導する。 代表的な門人としては、熊沢蕃山、淵岡山、中川貞良・謙叔兄弟、泉仲愛らがいるが、とりわけ藤樹没後における蕃山の事績によって、藤樹の名声をいちだんと高めたことは注目しなければならない。 また、魯鈍の門人であった大野了佐にたいして、大部の『捷径医筌』を著わし、それをテキストにして熱心に医学を教え、立派な一人前の医者に育てあげた話は、人を教えて倦まない藤樹の生き方を知るうえで、あまりにも有名なエピソードの一つである。 藤樹の著書は、『藤樹先生全集』全5冊(岩波書店版、昭和15年)に収められている。そのおもなものとして、『翁問答』『鑑草』『孝経啓蒙』『論語郷党啓蒙翼伝』『論語解』『大学考』『大学解』『大学蒙註』『中庸解』などがある。
| |